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当ページの設置日 : 平成16年08月15日(日)
ニュージーランドへの道(苦境編)
1998年の8月頃までは、右肩上がりで注文が増えていきました。  9月から少しペースが落ちましたが、それでも充分やっていける売り上げがありました。  その頃から、私は、多少、食事にお金をかけるようになりました。  それまでは、本当に禁欲的な清貧生活を続けてきました。  朝から真夜中まで仕事のみの毎日でした。  満足な食事も自粛していました。  これでは、身体が持たないと思い、多少、食事にお金を掛けるようにしました。  そして気分転換に、たまに飲みに行くようにもなりました。
商品の品質が良いと言う事で、最初は、お客さんから大変良い評判を得たのですが、その内にぽろぽろと不良も出始めました。 クライストチャーチ カテドラル聖堂  それでも、クレーム処理も毎回、きちんと処理し、良い評価は、強固なものとなりました。  1998年の11月には、クライストチャーチへ新規市場開拓へ行きました。  車で行きました。  片道、約千キロの道のりをずっと一人で運転して行きました。  完全に観光客の気分でした。  回りの景色は、とても綺麗で、千キロの距離を一人で運転しても、それ程、苦にならないで、楽しむ事ができました。  北島と南島の間のCook Strait(クック海峡)は、フェリーで渡りました。  飛行機の方がずっと安く経済的なのですが、私にとっては初めての遠出でしたので、敢えて車で行きました。  途中は、行き当たりばったりにMotel(モーテル)に泊まりました。  記憶が余りはっきりしないのですが、途中一泊して、翌日にはクライストチャーチに到着したと思います。  一泊したのは、ウェリントンの近くのLevinと言う町だったと思います。
Wellington(ウェリントン)からフェリーに乗って、南島のPicton(ピクトン)で降りました。  Pictonの近くになると、小さな島々を縫うようにフェリーが進んでいきます。  恐らく、氷河に削り取られた、フィヨルド式海岸だと思います。  それは、とても美しい景色でした。 ウェリントン ピクトン フェリー  南島では、途中で、羊の大群に道路をさえぎられ、立ち往生したこともありました。  どこまでも続く綺麗な草原と海岸線。  海岸線は、コンクリートで護岸整備されていないのです。  津波の心配が無い事を物語っています。  Kaikoura(カイコウラ)では、名物の伊勢海老も食べました。  ニュージーランドで取れる伊勢海老というのもちょっと変な気もします。  こちらでは伊勢海老の事を「Cray Fish」と呼んでいます。  NZの伊勢海老も日本人の伊勢海老と同じで、ハサミがありません。  アメリカ人の伊勢海老は、大きなハサミがあります。  アメリカ語で、「Cray Fish」と言うとザリガニで、アメリカ人の伊勢海老は、「Lobster」です。  ちょっと話がそれました。  Kaikouraは、鯨見物(Whale Watching ホエールウォッチング)でも有名です。
クライストチャーチに到着し、予約しておいた安いモーテルに記帳(Check-in チェックイン)しました。  翌日から、Yellow Pagesで見知らぬ会社に電話したり、飛び込みの売り込みをやりました。  私の尤も苦手とする分野です。  若し、逆に、私が客の立場で、飛び込みで来た外国人の業者を到底信用する気にはなりません。  体よく(ていよく)お帰り願う事でしょう。  しかし、Kiwi達(NZ人の事)は、大抵会って気軽に話を聞いてくれます。  初めての訪問でしたので、取り合えず顔見知りになり、相手を見極めると言うのが目的です。  クライストチャーチで3~4日営業して、又、来た道をオークランドへ帰りました。
オークランドのカジノ Skytower 結果は、翌月に直ぐ出ました。  クライストチャーチのお客さんも何社か出来ました。  このような調子で販売先と仕入先が、しっかりと定着してきました。  こう言う状態で4年が過ぎました。  その間、特に変わった事もありませんでしたが、仕事は順調に進んでいました。  そして、私は、結構遊ぶようになっていました。  一人と言う事もあり、食事を作ると言うのが実に億劫で外食をして外で飲むと言う事も増えました。  又、私は、ずっと自分を禁じていたある場所にも出入りするようになりました。  それは、カジノです。  ここでは、痛い目に遭いました。  もうこりごりです。
結構順調に仕事が軌道に乗り、気が緩んできたと思います。  人生は、山あれば谷あり。  まるで私の気の緩みを懲らしめるような出来事が起こりました。  2002年、NZのある法律が変わり、それは私を直撃しました。  1998年にも法律は、変わったのですがそれは、私にとっては追い風になりました。  しかし、2002年の法律改正は、逆風の嵐になってしまいました。  私は、徐々に追い詰められてきました。
私は、生まれてこの方、苦労をしたことがありませんでした。  仕事で辛い事や苦しいことは、何度もありました。  しかし、それは、誰もが味わう事です。  又、その苦しみから脱出できる、最後の選択肢が自分の手に有る内は、苦労の内には、入らないと私は、思ってきました。  しかし、2002年に入ってから、私は、凋落の一歩を辿りました。  注文は、どんどん減っていきました。
私は、窮しました。
「ニュージーランドへの道」を八話に渡りお届けしてきましたが、これにて前編を終了致します。  後編の予定は目途が立ち次第、再開したいと思いますが、今のところ、いつになるか分かりません。